この間、ピカソ展を観に行ったときに、絵画等の芸術は言葉以上に多様なメッセージを伝えられるものであると同時に、たとえ写実絵画であっても、ただでさえ違う国、時代を生きている我々に、当時の作者の思いを正確に伝えられる訳がない、と俺はあらためて感じた。
キュビズムに代表されるピカソの作品から感じとれるものは、二次元的でありながら、流れる時間や対象との心理的距離感、空想という三次元、四次元的要素であり、「印象のメディア」である絵画の大変素晴らしいところである一方、どこかでメッセージ媒体としての限界を感じてしまうのである。
◆「読書する女の頭部」(1953年 ルートヴィヒ美術館蔵)
ただ、唯一の正確な意思伝達媒体と言える「言葉」でさえも、専門用語の定義を正しく理解している者同士の会話ならいざ知らず、日常的な会話においては、往々にしてお互いに理解がズレてくるのである。白取さんが例にあげている「永久と永遠。欲望、欲求。・・・足、脚。思想、哲学。同情、憐憫。」などがそうだ。
俺は思う。同じ言葉であっても、人によって意味と、そのキーワードで呼び起されるエピソード記憶が違うのだから、人間同士の100%の意思伝達は不可能なのではないだろうか。
そんな世界で生きている我々に必要なのは、常に相手に言葉が正確に伝わらない前提で、相手への漠とした信頼感をもって付き合っていくことと、積極的にその違いを認めてゆく作業ではないだろうか。
人は、ゴールの違うそれぞれの道を歩いていて競争や争いは人生には意味が無い、と以前に俺は述べたが、同様に、人はそれぞれに「言葉」と「意味」を持っている。そして、そのために、必ず起こる「誤解」を乗り越えていくための行為「対話」が必要なのである。
※以下は引用。
「言葉を正しく知らないのなら、聞いたこと、読んだことを正確に理解できていないのはあたりまえだし、正しく表現もできていない。それは同時に、世界をちゃんと理解していないことであり、また自分の意見が正しく伝わっていないことを意味するのである。」
以上、引用。
話は変わるが、今朝、5年ぶりの運転免許の更新に、宮城県運転免許センターまで行ってきた。
一般講習約1時間の受講を終え 午前中に更新を澄ますことができたが、講習前に一時ヒヤリとした体験をしたので書いておくことにする。
免許更新の申請書とあわせて「質問票」なる、病院の問診票的アンケートを書かされた。
5年以内の四肢のまひなどの病の既往歴の有無について質問が有ったので、正直に「あり」のチェックボックスに印をつけたが、それがひっかかった。
「別室で話を聞かせてください。」「えぇ?」(まじ?取調べか・・・まさか・・・)
普段は部外者が入ることの無い申請受付カウンター裏の什器置き場兼面談コーナーで、入院時やリハビリの状況、身体の調子やかかっている病院名等のヒアリングと診察券のコピーを取られ、「本来であれば、医者の診断書などにより確認が必要ですが、面談により特に問題は無いと判断します。再発時などは必ず連絡をしてください。」とのこと。
そこで、壁に貼られた道路交通法の一部改正のお知らせに気が付いた。「これか・・・」
あの「質問票」は、気軽なアンケートなんかじゃあなくて、提出の義務と、虚偽記載には重い罰則があったのである。
そういえば、どこかで、てんかん発作を起こした人が、通学中の小学生の列に突っ込んだって事件があったなあ・・・。
とにかく、免許がもらえないんじゃあないかと、ヒヤリとした体験だった。
次の免許更新は、5年後の55歳。
それまで、絶対に再発させることの無いよう、さらに健康体になろう。
以上、東北戦線異状無し。