善光寺の山門にて
2009年 04月 19日
俺は、酒の肴に最高な「とうがらしの種」と、オリーブオイルにガーリックや七味唐辛子がブレンドされている「七味炒め油」を購入。これでモヤシを炒めたら、さぞ美味しいだろう、パスタもいいなあ。
その後、善光寺に向かう。参道のところどころで、様々な花たちが参拝者を迎えてくれていた。ご開帳がはじまって、もう参拝三回目。いつもどおりのルートでは面白くないため、これまで入ったことの無かった、国の重要文化財の山門を拝観することにした。アンチバリアフリーのムチャクチャ急な階段を登り二階に上がると、南側から長野の街が一望できる。なんと・・・俺のマンションが見えるではないか~しかも9階の俺の部屋から見通せるなんて、「素晴らしい!」。たいした話ではないのに、妙な感動を覚えた。二階の部屋には、善光寺側に四天王に囲まれた文殊菩薩、壁の上の方の棚には、部屋を取り囲むように、四国八十八ヶ所霊場御分身仏が祀られていた。なんと、四国八十八ヶ所霊場めぐりが、この場で出来てしまうということらしい。
えぇ~、さすがオールマイティかつコンビニエンスなお寺さん。善光寺の根源的な凄みを感じた。その後、山門を降りる階段の途中、踊り場の壁のいたるところに墨で書かれた参拝者の落書きを見つけた。読んでみると「嘉永四年・・・」、嘉永って・・・江戸時代ではないかぁ。こんなところからも、善光寺の時代を超えた求心力に感銘させられる。
その後、山門を出て本堂に向かう。何故か本堂に向かう人の流れが、少しずつ数珠繋ぎななってきた。「な、なんだ~?」と思い聞き耳を立てると、夕方、前立本尊様の入っている箱?の扉を閉める儀式のために、法要の導師が本堂に来るらしい。その時、「お数珠頂戴」で、お数珠で頭を触って功徳を授けてくれるのだ。俺は以前、偶然「お朝事」でお数珠頂戴を受けたが、夕方もあるとは知らなかった。もちろん、二回目のお数珠をいただいた。(上の写真。赤い傘の下に導師様が見える。※本来撮影禁止) そして、そのあと本堂に入り、前立本尊を遠くから参拝。この時間でも参拝者は途切れなく本堂に向かって続いていた。
俺が長野に来なかったら、善光寺を知り、長野の土地や人のすばらしさを知ることも一生無かったかもしれない。どんな人の人生も、偶然の連鎖で成り立っていて先は読めない。しかし、予見不可能な人生だからこそ、その味わいも深いのではないだろうか。北海道、東北、横浜、そして長野と、自分の意思では無く、いわゆる会社人事の偶然で渡り歩いたおかげでできた地縁は、俺のかけがえの無い宝となった。これからも自分とはまったく縁の無い、様々な地域を歩くことになるかもしれないが、偶然を前向きにとらえ、その土地や人を積極的に知ることを心がけよう。それが、この世を刺激的に感じ、一度きりの人生を楽しむ術なのだ。
以上、長野戦線異常無し。
by kaiseik
| 2009-04-19 21:27
| 道をひらく
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