「国家の品格」 その2
2006年 06月 25日
昨日は午前中は洗濯、午後はスポーツクラブに行った。そして、インターバルに再び「国家の品格」を読み進めた。前回読んだ内容では、論理的に人間社会の問題を解決しようとすること自体がいかに不安定な考え方か述べていた。論理のスタートが違っていることで、まちがった方向に行ってしまうリスクや、短絡的な論理で片付けるリスクは、俺も共感するところがある。
そのため、著者は日本人の培ってきた「情緒」や「形」を論理よりも重視する。
「情緒」的に判断できる風土が、欧米化し荒廃する日本社会を救う鍵であると。
そして、今回の第三章は、欧米の「論理の出発点」が「自由、平等、民主主義」という概念であり、それらはそれぞれ矛盾するものだ、ということを述べている。また、民主主義の前提は国民が成熟した判断ができることを前提としているが、それは永遠にありえない、と。
だからこそ、あらためて日本人の心の基点として「情緒」が大切なのだと言う。
桜の花を愛する日本人は、薔薇を愛する欧米人とは違った面で鋭い感性をもっていて、「もののあはれ」という言葉があるように無常観の中に美しさを感じる民族である、というのは同感だ。
日本の風景の中には繊細な季節の流れを感じずにはいられない。それが過去の記憶の背景となり、郷土愛や祖国愛につながっていく。

★以下は引用。
★しかし、国民というのは一体、成熟した判断が出来るものなのでしょうか。・・・第一次大戦後、すなわちワイマール時代のドイツはきちんとした民主主義国家です。ワイマール憲法は主権在民、三権分立、議会制民主主義をうたった画期的なものでした。その民主的な選挙で一九三二年、ヒットラーのナチ党が第一党となったのです。その後もドイツ国民は常にヒットラーを支持しました。・・・一九三八年にオーストリアを併合した時は九九%が国民投票で支持したのです。
・・・冷徹なる事実を言ってしまうと、「国民は永遠に成熟しない」のです。
・・・「成熟した判断が出来る国民」という民主主義の暗黙の前提は、永遠に成り立たない。民主主義にはどうしても大きな修正を加える必要があります。
★自由と平等は両立さえしません。・・・アメリカのプライベートなゴルフ・クラブには女性会員を認めない所や、有色人種をほとんど入れない所が多くあります。これは、女性や有色人種から見れば不平等ですが、ゴルフ・クラブから見れば、組織する自由、趣向の自由、思想の自由です。自由と平等が正面衝突しています。
★平等と平等も衝突です。平等な条件で競争すると弱肉強食となる、貧富の差が大きくなり、不平等となります。結果の平等ではなく機会の平等だ、という論が流行していますが、噴飯物です。前代学生の親の中で、東大生の親の所得が最も多いことが証拠です。
★一つの解決策として私が提示したいのは、日本人が古来から持つ「情緒」、あるいは伝統に由来する「形」、こうしたものを見直していこう、ということです。論理とか合理を否定してはなりません。これはもちろん重要です。これまで申しましたのは、「それだけでは人間はやっていけない」ということです。
何かを付加しなければならない。その付加すべきもの、論理の出発点を正しく選ぶために必要なもの、それが日本人の持つ美しい情緒や形である、それが私の意見です。
★自然への繊細な感受性を源泉とする美的情緒が、日本人の核となって、瀬かに例をみない芸術を形作っている。「悠久の自然と儚い人生」という対比の中に美を感じる、という類まれな能力も日本人にはあります。
★桜の花は、ご存知のように本当に奇麗なのはたったの三、四日です。しかも、その時をじっと狙っていたかのように、毎年、風や嵐が吹きまくる。それで「アアアー」と思っているうちに散ってしまう。日本人はたった三、四日の美しさのために、あの木偶の坊のような木を日本中に植えているのです。。
桜の木なんて、毛虫はつきやすいし、むやみに太い上にねじれていて、肌はがさがさしているし、花でも咲かなければ引っこ抜きたくなるような木です。
しかし日本人は、桜の花が咲くこの三、四日に無上の価値を置く。たったの三、四日に命をかけて潔く散っていく桜の花に、人生を投影し、そこに他の花とは別格の美しさを見出している。
以上は引用。
前回、自分考えとして家族愛の発展したものが愛国心だと書いたが、全く同じことを著者も書いていた。必ず散りゆく人生の中で、一緒に生きていく人、また一瞬でも知り合った人達の人生や生き方を、自分のものと同様に大事にして思いやる気持ちが、人間社会全体を良いものにしていくのだと思う。
ただ、これから育つ子供たちに、この「情緒」をどのように教えていけばよいのか?
日本的「情緒」に端を発する隣人への「思いやり」や「道徳観」を、実感をもって経験できる場が少なくなってきている。
以上、横浜戦線異常無し。
上の写真は、先週月曜日に出張で秋田に行ったとき立ち寄ったバラ園の風景。
桜と対比されるバラは「気品」や「気高さ」の象徴であり、これはこれで俺の大好きな花である。
そう言えば、何年か前まで結婚記念日には必ずバラの花束をプレゼントしていたっけ。15回目?の結婚記念日である7月7日が近づきつつあることにふと気がついた。
今日は午後、中華街までお散歩。甕出しの紹興酒を買い、雨が降ってきたため二時間くらいで家に戻った。
※はじめて昼間に中華街に来た。
いまにも雨が降りそうだったが、日曜だけあって人でごったがえしていた。


※甕出し紹興酒1本1000円、何故かザーサイ2袋付、味見をして即購入。
かなりスッキリした飲み心地。しかし、今思えば高かったかなあ。

※何かの撮影に遭遇、目の保養にもなりました。携帯向けてる姿は完全にエロオヤジだったことだろう。

バラの花も野バラはとてもにおいが強いですよ。園芸種のバラよりと思います。野バラは昔からの在来種なんでしょうかね。ソメイヨシノは接木でくできるんですよね。西行なんかが愛した桜は自然の中の山桜だと思います。日本的なものの感じ方考え方は是非世界中に広めたいものですね。なぜなら、日本人は一国で、持続可能な社会を作ることが出来た国だからぜひともそれを世界中にと思います。
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by kaiseik
| 2006-06-25 21:14
| 読書道
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